【メンバーブログvol.112:伊藤 由加 】 魂を磨くって
「人格を磨く」「魂を磨く」。書店にはその手の本がウン千、ウン万と溢れていますね。私の尊敬する稲盛さんの本にも、その言葉がたびたび出てきます。
けれど、なぜ人は魂を磨かなければならないのかは言及されていない。そう思いませんか?
世のため、人のため?
よりよく生きるため?
輪廻転生した来世のため?
あるいは、成功するため?稼げるようになるため?
世のため、人のために尽くすことは、なぜ必要?
稼いで物質的なものを全て手に入れたら、その先に何がある?
考え続けた末に、今の私の結論はこうです。
「今の自分の行いは、すべて将来の自分に返ってくるから」
もちろん、自分の利益のために人に親切にする、ということではありません。
日々、何に目を向け、物事をどう受け止め、どう振る舞うか。
その積み重ねが、魂を磨くということだと私は解釈しています。
ただ、人のため、世のために、と自分を律し、整えて生きることが、長い目で見た時に、最後にのちの自分を支える力になるのだと思うのです。
人生が上り坂のうちは、外側のものが力を持ちます。
若さ、体力、勢い、可能性。
けれど人生が折り返しを過ぎると、少しずつ下山(※1)が始まってくる。
(※1) 下山とは…「腰に爆弾、膝に水を抱え、肩が職務放棄。ピント調節機能はオートからマニュアル仕様に変更。サーロインを食べれば胃が異常を検知。体のすべてのパーツが地面への着地を切望。髪は静かに去っていく。」などが起こりうる事象のこと。
若い頃には当たり前だったものが、ひとつずつ手からこぼれていく。
そんな現実は、20代の自分から見れば、きっと絶望ですよね。
私も20代の時、おそろしくてたまりませんでした。
そして今、まさしくその絶望と思われる側に立っている私。
ところが、意外と悪くない笑
そんな時に人を支えるのは、外側のパワーではなく、磨いてきた内側だけなのかもしれないなと感じます。
下山の途中でこそ、本当に必要だったものが見えくる。
長年、宝物だとその腕に大切に抱えてきたモノが、後になって、ただの不燃ゴミと知る瞬間も経験する。
それは悲しいし、痛い。
ただ今まで一生懸命に自分を律し、善行をし、魂を磨いてきていたなら、その悲しみも痛みもちょっとしたかすり傷で済むような気がします。
想像してみてください。
自分が歳を取って、いろんなことが不自由になって、体のあちこちが痛み、介助を受けないと動けなくなった時に、「どうして私ばっかりこんな目に」とか「あの人はいいな」とか思い始めると辛く、箸が転げただけで世の中すら恨み始めてしまうと思うんです。
そうなった時に「ありがたいな、幸せだったな」と思え、良い面に目を向けられるだけの心の力を蓄えられているかどうか。
できることが減っていくなかで、失ったものばかり数えて荒れていくのか。
それとも、受け入れながら穏やかに歩いていけるのか。
その違いをつくるのが、今までいかに魂を磨いてきたか、なんだと思うんです。
人のため、世のためにしたことが、自分に報酬としてかえってくるわけではない。
けれど、その行いによってカタチ作られた自分自身が、最後に自分を助けてくれる。
とどのつまり、魂を磨くこと、人のためにする行いも、結局、巡り巡って副次的に自分に返ってくるのだなぁ、と今の私はそう思っています。

